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北星学園生協をめぐる、のほほんなブログ。旬の生協情報、極私的情報もお届けします。




One for All, All for One

-一人はみんなのために、みんなは一人のために-佐藤正夫
 大学開学いらいその事務責任者として20年日を迎るに当って、北星学園生活協同組合が大学の大谷地校地への移転・建設を契機に誕生した経緯から当時の想い出を書くことになりました。私は学園生協設立発起人の一人として、また設立当初の理事となっていらい今日まで一貫して北星生協理事の座を降りられずに、その生成発展を見守り続けてきた唯一人となってしまった15年という歳月の流れを省み、まことに感慨深いものがあります。
 1963(昭和38)年12月4日夜8時、仮り住いでもあり借り住いでもあった南5条校地の大学校舎が、「延焼しませんよ」という消防署のご託宣にもかかわらず、ついに焼失し、悲壮な決意のもとに、雪深い大谷地校地に移転し急造プレハブ校舎で開講したのは、あくる1964(昭和39)年1月27日でした。大谷地開講2ヶ月後の3月20日には、文学部第1回卒業式がプレハブ教室で挙行され、公害のない当時のこととて、式後、深い残雪が快晴の陽射しに白銀色に輝く屋外で、卒業記念写真を撮影した日の感激を忘れえません。
 当時の大谷地校地は、札幌市郊外といっても、現在の140万都市に発展した感覚では想像し難しい状況であり、例えば大学の電話は市外局番厚別局扱いであり、ダイヤル電話など思いもよらない時代でした。従って、近くには食堂や商店は一軒もなく、5棟800坪余りのプレハブ校舎を一歩出れば、春にはヒバリのさえずる声が満ち、緑の田園風景が展がっておりました。
 その春、融雪と同時に本校舎の第一期工事とW・G・ホール(現チャペルと図書館)の工事が始まり、夏に入ると経済学部設置申請作業が始まるなど、大学創設期のピーク時を迎えました。このため連日徹夜で泊り込みの私どもは、毎朝、畑地跡の掘りこぼれから芽生えた人参の葉を摘んでは揚げ豆腐で味噌汁を作り、缶詰の魚と飯盒めしの明け暮れでした。連日のキツネ汁に食傷した頃、第二代学長鷺山第三郎先生がプレハブ校舎に泊り込まれての陣頭指揮をして下さり、お蔭で夕食はスキヤキやジンギスカン鍋にありつき、用務のおばさん達ともども楽しい夕餉を味わいつつ、鷺山学長の英文学談義に夜のふけるのを忘れる日々もありました。
 この頃は、学生・教職員とも昼食は弁当持参が多かったと記憶しますが、大半は学外業者のパン・牛乳類の出張販売に頼らざるをえない状況でした。
 1960(昭和35)年代の日本経済高度成長期に向う頃、学生・教職員が消費生活を守るべく全国的に生活協同組合設立の動きがあり、大学生協としての北海道大学生協が1960(昭和35)年クラーク記念会館の開館を契機として経営規模の拡大と安定を図り、また生協経営の研究と生協専従職員の養成を着実に進める中で、道内大学生協の指導と後援、さらには新設への協力・援助を惜しまない体制が調いつつありました。
 その頃、大谷他校地に移転した私ども教職員・学生は、新天地に大学を建設するという意気に燃えており、創設期の学内には、いわゆる大学当局と学生集団とが対決と交渉で事を進めるといったような雰囲気は全くなく、大学づくりは文字どおり教員と職員と学生が一体となって考え合い、相談して事を進め、われわれの大学をつくるのだという思いで一杯でした。学生控室やクラブ室の整備についてはもとより、大学祭等についても、乏しい予算をやりくりしてのことで、現在からみればお粗末ではあっても開拓者的な手作りの楽しさに喜びを感じていたと思います。
 田園的自然には恵まれていたものの、市街地から遠く離れた農地のただ中での生活でしたから、学生の厚生施設について、まず何よりも食堂と購買を設けようということになりました。しかし、厨房・食堂など施設への設備投資資金と、仕入・調理・販売担当者の人件費等の経営資金をどうするかについて、大学直営とするか、学外業者委託とするか、それとも大学生協を設立するか、この三つの方式をめぐっての検討と思案が続きました。
 この頃、教職員組合の結成が進められ、大学と同時開設の男子高を含め女子中学高校、短大、幼教と合わせ6校の教職員が北星学園として団結するという背景ができました。このことによって各校教職員・学生生徒の福利厚生を連帯して考える気運が生れ、1964(昭和39)年12月17日に「学園生協設立準備委員会」が、“北星学園すべての学生・教職員の生活文化の向上と豊かな学園づくりのために”のスローガンのもとに22名の学生・教職員の参加をえて正式に結成されました。いらいこの準備の男子高と大谷地校地の大学というように地理的に離れている状況を克服し、一般学生・教職員への生協学習会、モデル展示即売会、経済調査アンケート、設立運動支持の署名等さまざまな準備活動を展開し、設立のための第一目標である「設立発起人会結成」に向けての努力が続けられました。
 翌くる1965(昭和40)年4月、大学に経済学部が発足するとともに文学部は開設4年目となり、倍増した学生数の中から設立準備にあらて 多くの新手(あらて)が加わり、情宣活動に挺身したことが教職員組合の協力とあいまって、生協設立に対する盛り上りが出来、7月15日には「北星学園生活協同組合設立発起人会」の結成総会が約60名の発起人全員参加のもとに開催されるに至りました。この総会で、発起人会長に時任正夫学園長を選任し、事務局を準備委員で編成するなどの体制をつくるとともに、定款案の検討を開始しました。
 この第1回発起人会総会において出されたさまざまな意見を基にして、定款案の作成、食堂・売店等の施設・設備の調査・設計等具体的な設立準備作業が進められました。
 大学においては、発起人が中心となって学内実行委員会が組織され、多くの学生・教職員が一体となって、生協設立断行の気運を高めようとしましたが、当初は生協運動への理解が薄く、低迷現象を生ずる一方、学園全体としては各校の地理的分散の状況、学園運営機構上また各校創立いらいの独自性尊重の立場から、発起人会事務局内部において結束の乱れを生ずる状態となりました。
 この状態打破のため、10月5日に第2回発起人総会が開かれ、速やかに生協設立を実現するためには、一時その活動を大学と短大独自の生協設立に焦点を絞って活動を展開すること、その設立を基盤として段階的にその輪を拡大して行くことが運動の方法論として協議されました。また、生協活動に必要な施設設備は学園から厚生施設として供与されること、北星学園らしい生協をつくることが確認されました。
 やがて大学祭などを契機として、学生の発起人の間では大学と短大が接触を深める中で設立運動当初の姿勢である“学園生協”設立の目標を見失わないとの意志を明らかにし、学生達の力で設立運動は再び“学園生協”路線に結集されて行きました。
 1966(昭和41)年4月、多数の新入生を迎え出資金の募集が順調に伸びて相当額に漕ぎつけたので、大学では実行委員会内に定款小委員会および施設小委員会を設けてその具体的準備を進めた結果、大学における食堂開設に当初必要な施設の供与が実現し、また定款案の整備も進捗しました。他方、学園生協を日指して大学の学生による短大支援は、大学側の準備体制の強化に呼応して、出資者の激増さらに食堂施設の獲得となり、5月28日に第3回発起人総会を開催するに至り、ついに「設立総会」の準備を調えることができました。
 1966(昭和41)年6月11日(土)午後、大学チャペルで開催された「北星学園生活協同組合設立総会」こそ、わが生協の誕生でありました。
 胎動2年有余の後ようやく生れた翌々6月13日にはさっそく第1回理事会を開き、理事長以下の役割分担、銀行口座の開設、生協職員人事、大学及び短大との施設貸借契約、食堂営業申請など、生協としての営業活動開始に必要な事項を決め、引き続き6月25日の第2回理事会では、消費生活協同組合法による法人登記手続、取引業者の選定と取引条件の設定、職員の人事・給与条件の決定、組織活動の推進方法と総代会の編成などについてとり決め、それぞれ分担業務の実施に入りました。ついで7月9日の第3回理事会で大学生協連合会への加盟を決定し、夏の全国大会に参加し、内外ともに体制を調え、学園生協として歩み始めたのでした。
 発足当初の生協理事会構成員として創業の苦楽を共にした方々は、つぎの顔触れで、とくに大学の学生理事諸君は設立準備時代から労苦を共にした仲間であり、一人一人の活動ぶりをプレハブ校舎での生協施設を背景に忘れえません。
理事長・時任正夫(学園長)、専務理事・石井一朗(学生)、常務理事・佐藤正夫(総務担当)、斉藤桂紀(営業担当・学生)、約仕文宏(組織担当・学生)及び短大から3名、理事・永田勝彦(文学部教授)、原田和幸(経済学部教授)、糸数徹男(学生)及び短大・幼教から4名、監事・安田順助(大学職員)、甲斐博邦(学生)他に短大から1名(以上理事15名、監事3名の編成でした)
 北星学園のように古い歴史をもつ女学校から出発し、戦後の学制改革で中学・高校・短大と発展し、その後に小規模の大学が設置された学園で、しかも校地が同一市内とはいえ遠く分散している状況の中で、元来大学なればこその大学生協を、学園生協としての連帯にまとめ上げて誕生させたエネルギーは、大へんなものでした。たとえ教職員組合の支援が背景にあったとしても、何といっても創設時代の大学の学生諸君の若々しい情熱に燃えた力の結集が、多くの困難を克服して、大学生協を「学園生協」として実現させたと思うのです。学生時代にこのような創設の体験を味わう機会にめぐり合わせた当時の学生諸君は、とくに生協活動の目標が“一人はみんなのために、みんなは一人のために”ということであるために、何を学びとって卒業して行ったことでしょうか。校舎は仮設プレハブではありましたが。
 このことと合わせ、生協設立にかかわってもうひとつ忘れられない蔭の消息として、1965(昭和40)年4月、経済学部開学とともに着任された高倉新一郎教授の蔭のご協力があります。先生は「北大生協」育ての親として、大学生協について豊かな学識と経験をもっておられる第一人者でありましたが、北星生協設立前後の活動には直接参与されませんでした。しかし、大学生協活動が食堂・購買という営業活動よりも、高邁な理念を掲げての組織活動に走ることを危惧する学園経営者側を啓蒙して下さったり、設立準備と発足について北大生協の具体的援助と指導をあっせんして下さいました。定款を起草するに当って、生協理事と学生からの理事数との割合を、当初から6対7と学生の方を多くしたについては、高倉先生の大学生協に対する理念と実践との深い体験からのご助言と、教職員の学生に対する何のわだかまりもない信頼感とによって、スンナリ決まったことを憶えております。
 以上とりとめのない個人的な思い出をしるしましたが、経済安定成長の時代になった今日、わが生協の組織活動は低迷し、“一人はみんなのために、みんなは一人のために”という生協本来の目標が忘れ去られ、営業活動も危機的状態に陥っている現状を見るにつけ生協誕生の頃を想い起し、新たなる誕生=再生を願うものであります。
    ※執筆した佐藤正夫氏は初代の大学事務局長
『北星学園大学開学20周年誌』(1981年)pp.173-176より転載

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